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「ゆづりは」連載記事
堺かるた完結記念
「堺かるた」の内容を順にご紹介していくコーナー、平成19年12月発行の「ゆづりは(第5号)」で「いろはの『い』」から始めて、前号(第48号)『す』の札で最終回を迎えました。これを記念して、図書館ホームページにこれまで紹介した札を全て掲載しました。改めて見直すと意外な堺、忘れていた堺が見つかるかもしれません。「堺かるた」は図書館で貸出しています。お正月のかるた遊びに、堺のことを学ぶために、是非ご利用ください。
※記事の内容は「ゆづりは」掲載当時のものです。
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堺県は慶応4(1868)年 6月22日から明治14(1881)年まで存在しました。範囲は最大で現在の大阪東部(旧河内国)、大阪南部(旧和泉国)、奈良県全域(旧大和国)を含む広いものでした。県庁は西本願寺別院(堺区神明町)におかれました。
正平19(1364)年、堺の道祐(どうゆう)が日本で初めて論語の印刷本を出版しました。これを正平版論語といいます。日本最初期の木版印刷で、唐代の論語の姿を知る上でも貴重な資料です。
16世紀頃の堺は、当時南蛮と呼ばれたヨーロッパの国々との貿易のため、多くの商人が活躍し大変栄えました。オランダ人モンタナスの著した「日本誌」という本にも、「SACCAI」の文字と、にぎわう港の様子が描かれています。
法道寺は、天智9年(670年)に法道仙人により創建されたと伝えられています。境内の多宝塔・食堂(じきどう)は、国の重要文化財に指定されています。春には桜、夏には百日紅が見事な花を咲かせ、秋は紅葉が美しく、訪れる人を和ませてくれます。
方違神社は、その位置、三国ケ丘(摂津・河内・和泉の境)や昔の風習から「かたたがえ」神社と呼ばれることがありますが、正しくは「ほうちがい」神社と称します。転宅、転勤、海外旅行などに際し、現在も多くの人が参拝に訪れています。
元和元年(1615年)大坂夏の陣で堺の町は全焼しました。夏の陣に勝利した徳川家康は、堺の町を大切に思って、風間六右衛門に命じて町をもとのように作り直しました。これを元和の町割といいます。長方形の碁盤の目のような整然とした町並みでした。
戦国時代末期、宣教師ビエラは本国に送った手紙の中で「日本全国で堺の町ほど安全なところはない」と書いています。
海と堀で囲まれた地理的条件だけでなく、商人たちが町の代表となって治めた自治の町だったことから、イタリアの自由都市ベニスに例えられました。
家原寺は704年(慶雲元)年、行基が建立した寺です。「知恵の文殊さん」と呼ばれ、シーズンになると受験生でにぎわい、本堂が「合格祈願」と書かれたハンカチで埋め尽くされる風景が、冬の風物詩となっています。
大和川は、今から約300年前に付け替えが行われました。付け替えによって大量の土砂が堺の港に流れ込んだため港の衰退を招いたと言われています。一方で土砂で埋め立てられたことによって新田の開発が行われるようになったこと、また遠浅の海であったため元々大型船の入港ができなかったことなど、付け替えがすべてマイナスではないという考えも広まってきています。
江戸時代後期に発行された『和泉名所図会』には、豊富な水量の石津川での布晒(さらし)の様子が記されています。和泉・河内の木綿栽培を背景に成長した木綿産業によって、晒は堺の名産品となりました。布晒は、木綿を漂白するために水にさらし、真白に仕上げるという工程です。
堺の晒業の歴史については『堺市史 続編』第1巻「晒布マニュファクチュア」などに詳しく記されています。手作業から工場制へ変化をとげながら、晒業はいまの堺に受け継がれています。
鎖国以前は「日本一の貿易港」として栄えていた堺。商人たちは、来航するヨーロッパ人と取引きするだけでなく、自ら船に乗って東南アジアまで貿易に出かけたりもしました。なかでも有名なのが納屋(なや)助左衛門です。たびたびルソン(今のフィリピン)まで赴き、大きな利益を得ていたので、呂宋(ルソン)助左衛門とも呼ばれました。往年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』(原作は城山三郎)の主人公にもなりました。
須恵器(すえき)は陶器とも書きます。日本で初めて須恵器が作られたのは堺です。現在の南区、泉北ニュータウンのあたりに「陶(すえ)のむら」がありました。千五百年ほど前、固い土器を焼く技術が朝鮮から伝えられて以来、約八十年間「陶のむら」は、陶器を作っていた日本唯一の場所といわれ、全国各地へ陶器を送っていました。発掘された陶器は、主に大蓮(おおはす)公園内の「堺市立泉北すえむら資料館」で見ることができます。
(※「堺市立泉北すえむら資料館」は閉館しました。)
毎年7月31日に大浜公園で行われている大魚夜市は、住吉大社の夏祭りです。みこしが堺宿院竜宮まで渡御するのに先立ち、地元の漁師が魚を神前に奉納し、その際に魚市が大浜海岸に立ったことに由来し、鎌倉時代に始まったものとされます。
昭和49年に中止されましたが、昭和57年に再開され、現在に至っています。今年も約30万人の人出で、おおいに、にぎわいました。
石津川下流近くにある「四ツ池遺跡」は、近畿地方の代表的な弥生遺跡です。中心部は国の史跡に指定されています。この遺跡で発掘された石器、土器、獣骨、野菜や果物の種など、たくさんの出土品から、約2000年前、人々がここに集まって暮らし、稲作、狩猟、漁獲、野菜栽培や採集などを行っていたことがうかがえます。最盛期には100棟近い竪穴住居や掘立柱建物が建っていたと考えられています。
日本書紀に、推古天皇の二十一年(613年)難波(今の大阪市)より、そのころ都であった飛鳥(今の明日香村)まで大道をつけたと書かれています。その名残が「竹の内街道」です。榎小学校の横から、金岡小学校の前を東へ、中村町、野遠町をとおり、松原市、羽曳野市、太子町から二上山の北側の竹の内峠を越え、大和の飛鳥へと続いているので「竹の内街道」と呼ばれるようになりました。この竹の内街道は、わが国でいちばん古い国道であるといえます。
南北朝の時代、南朝の中心は山深い吉野の地にあったため、堺は中国や四国、和歌山に点在する味方との連絡や物資の運搬に重要な港でした。
延元3年(1338年)5月、堺で北朝方と南朝方の合戦があり、南朝方を率いて転戦した北畠顕家は同月22日石津で戦死。「股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消えたまひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける」と太平記に記されています。
参考文献:『むかしの堺』 別所やそじ/共著 堺児童文化振興会
『堺市史』(堺市役所)
『太平記 新潮日本古典集成』(新潮社)
妙国寺は永禄5年(1562年)、当時堺を支配していた三好四兄弟のひとり、義賢(よしかた)から、蘇鉄(そてつ)と土地の寄進を受けた日珖(にちこう)上人により開かれた寺です。現在境内にあり、天然記念物に指定されている大蘇鉄は、その当時のものが生き続けています。
織田信長が安土城を築城した際、この妙国寺の蘇鉄を移植しました。遠い南国からきた蘇鉄は、当時、たいへん珍しかったのです。しかし、夜になると蘇鉄が「堺にかえろう」とすすりなくので、気の短い信長は「切り倒してしまえ」と命じました。家来が切り倒そうとすると、蘇鉄が血を流したので、さすがの信長も恐れをなして妙国寺に戻したと伝えられています。
参考文献:『むかしのさかい』(堺児童文化振興会)
『堺のあゆみ』(堺文化史展覧会)
『戦国 三好一族』(新人物往来社)
『堺観光ガイド』HP(堺観光コンベンション協会)
http://www.sakai-tcb.or.jp/index2.php
切妻屋根の棟(むね)と直角な山形の面を「妻(つま)」と呼び、こちら側に正面入り口がある建築様式を「妻入(つまい)り」といいます。大鳥大社の本殿はこの「妻入り」という建て方をしていて、出雲大社の次に古いものです。
『大阪府神社名鑑』では神社の起源を「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷御征討の帰途俄(にわ)かに病に罹(かか)り、伊勢国能褒野(のぼの)に於いて薨去(こうきょ)せられ、その屍(かばね)は白鳥と化して飛び去り、当社に来り留まったので、社殿を建立し尊を祀った」と、大鳥大社の社伝として紹介しています。
大鳥大社は、たくさんの木々がしげり、古い大きな木や珍しい木もあり、千種の森と呼ばれています。春はさくら、秋はもみじが楽しめます。また、広い池に約50種10万本の色とりどりのショウブの花が美しく咲く菖蒲園が有名です。(6月上旬~中旬が見頃)
参考文献:『むかしの堺』(あかがね印刷出版)
『堺の寺社建築 二』(堺市教育委員会)
『神道大系 神社編6』(神道大系編纂会)
『大阪府神社名鑑』(大阪府神道青年会)
『和泉名所図会』(柳原書店)
『天翔る白鳥ヤマトタケル』(河出書房新社)
『堺観光ガイド』HP(堺観光コンベンション協会)
年一度の堺まつりは、昭和49年(1974年)から毎年10月第3日曜日とその前日に開催しています。堺市民オリンピックと堺市農業祭と合わせて「堺三大まつり」とされていて、来場者数や規模の大きさから堺を代表するイベントとなっています。
堺まつりでは、なんばん船を模したフロート車が登場する大パレードがイベントの中心になっています。堺での異国の人を入れた行列の起源は古く、江戸時代初期に描かれた「住吉祭礼図屏風」(堺市博物館蔵)にも登場します。なお、「住吉祭礼図屏風」は、堺市役所1階に複製の陶板画が展示されています。
堺の納屋衆は富裕な商人の集まりで、町の自治運営にあたっては指導的役割を果たしていました。安土桃山時代の茶人、千利休はこの納屋衆の一人でした。利休は豊臣秀吉の茶頭として仕える一方、政治上の機密にも通じ、大きな勢力をもつに至りましたが、やがて、秀吉によって切腹を命ぜられました。
現在の茶道の家元の始祖であり、後の日本文化に大きな影響を与えた利休は茶聖と称されています。その生涯は魅力的な題材のようで、野上弥生子、井上靖など著名な作家により小説化されました。山本兼一「利休にたずねよ」が直木賞に輝いたのは記憶に新しいところです。
参考文献:『国史大辞典』国史大辞典編集委員会 吉川弘文館
『むかしの堺』別所やそじ他 堺児童文化振興会
『秀吉と利休』野上弥生子 中央公論社
『本覚坊遺文』井上靖 講談社
『利休にたずねよ』山本兼一 PHP研究所
「その市街は大きく、富裕であり、盛んに商取引きが行われるのみならず(中略)、絶えず各地から人々が参集するところであった」
堺で布教活動をしていたこともある宣教師ルイス・フロイスがその著『日本史』で記したように、戦国時代、海外貿易の拠点として栄えた堺は、町の周囲を濠でめぐらし、商人の代表である会合衆が町を治める自治都市を築いていました。そのような平和で自由な雰囲気のなか、連歌や茶の湯などさまざまな文化が栄えました。
堺は古くから包丁の産地として有名です。堺鉄砲の鍛冶技術が、刃物の製作に生かされています。
堺の庖丁は、タバコの葉を刻むためのものから発展したと伝えられています。江戸時代のタバコは、タバコ葉を細かく刻んだものをキセルに詰めて吸われていました。その際、葉を細かく刻むほど、味が良い商品として売れましたので、切れ味のよい包丁が求められ、堺の包丁は盛んに売り広められました。
包丁作り名人の妻の名をとり「おかた包丁」と名付けたとか、石でも割れる切れ味のよい包丁だから「石割包丁」と呼ばれた、という逸話も残されています。
売れ行きが伸びると堺以外でも包丁が作られるようになりましたが、徳川幕府は、堺で製作した包丁に「堺(さかい)極(きわめ)」という焼印を入れ、幕府の専売品として売ることを許可、堺包丁は全国に名を広めることになりました。
現在も毎年「堺刃物まつり」が開催され、伝統産業の振興を図っています。
与謝野晶子は、明治11年12月に堺県堺区甲斐町(現在の甲斐町西1丁)に、和菓子商「駿河屋」二代目店主・鳳(ほう)宗七の三女として誕生、「志(し)よう」と名づけられました。
家業の手伝いをしながら、『源氏物語』などの古典文学に親しみ、堺女学校(現在の泉陽高等学校)を卒業後、「堺敷島会」や「関西青年文学会」などに入会して、次々と歌や詩を発表します。
明治33年に大阪で開かれた講演会で、晶子は初めて与謝野鉄幹に出会い、この出会いがきっかけで、晶子は堺を離れて、東京へ旅立つことになります。
昭和36年、晶子没後二十年祭の行事のひとつとして、堺市教育委員会により生家跡に歌碑が建てられました。
「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつゝ 少女となりし父母の家」
波の音を聞きながら、故郷堺の海や生まれ育った家を懐かしんだ歌で、明治38年刊行の『恋衣』に載っています。
近年の研究により「かいごうしゅう」とも呼ばれる会合衆は、特権的な豪商で構成される合議制の機関で、堺の自治に指導的な役割を果たしていました。
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁して京都に入った織田信長は将軍家再興を名目に畿内の各地に軍資金を差し出すように命じ、堺には二万貫の矢銭を要求しました。会合衆は相談のうえ、この要求を拒絶しました。
信長は、日明貿易で繁栄していた堺を、直轄地にすることを望んでいたため、あえて戦をしかけませんでしたが、12月に三好氏が京都を奪回しようとして失敗すると、三好氏に加担していた堺の会合衆に最後通告を出しました。
永禄12年正月、堺は信長の要求に応じました。
参考文献:『堺と博多 戦国の豪商』泉 澄一/著 創元社
『私の堺史自慢』長野 精一/著
『むかしの堺』別所 やそじ/共著 堺児童文化振興会
『堺のあゆみ』尼見 清市/文 堺商工会議所
『堺かるたの本』別所 やそじ/編 堺かるた普及会
現在の浜寺から高石あたりまでの海岸は、高師の浜と呼ばれていました。
その浜は、『万葉集』に、
「おおともの 高師の浜の 松が根を くらきぬれど 家ししのばゆ」
と詠まれるなど松が有名で、古くから白砂青松と知られていました。江戸時代の『和泉名所図会』にも、高師の浜の松林が描かれています。
明治6年、太政官布告により、わが国最初の公園の一つに指定され、浜寺公園になりました。近くには、100年以上の歴史がある浜寺水練学校や国の登録有形文化財である南海浜寺公園駅舎などがあり、歴史を感じさせてくれます。
参考文献:『むかしの堺』 別所やそじ・尼見清一/共著 あかがね文庫
『万葉集(一) 日本古典文学全集2』 小学館
『和泉名所図会』 柳原書店
『浜寺公園 ぐるり歴史散歩』財団法人 大阪府公園協会
青い海と空を背景にそびえる白い六角錘の建物―堺旧港の入口に立つ旧堺燈台は、明治10年(1877年)に完成しました。燈台の築造費は、当時のお金で2,125円20銭5厘を要しましたが、その多くは市民の寄付によるものでした。
旧堺燈台は、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968年)に、燈台としての役割を終えましたが、昭和47年(1972年)、現地に現存する日本最古の木造洋式灯台の一つとして国の文化財(史跡)に指定されました。
参考文献:『堺市史』
『むかしの堺』
当館ホームページ「堺の風景 №13大浜の旧堺燈台」「デジタル郷土資料展 旧堺燈台―大浜のきのう・きょう・あす―」
応永6年(1399年)、大内義弘は東が湿潤地帯で西は海という堺の地の利を生かして戦うため、井楼(物見櫓)を48と矢を射るための櫓を1,700もつくり幕府軍を迎え撃ちました。
同年11月29日の戦いでは幕府軍を撃退しますが、12月21日の戦いで幕府軍により櫓に火が放たれ、それが1万戸の民家にも広がり、大内義弘もこの日戦死しました。
この戦いを「応永の乱」といい、このことは『堺記』や『応永記』などに堺が初めて焦土と化した記録として伝えられています。
参考文献:『むかしの堺』別所やそじ・尼見清市/共著 堺児童文化振興会
『堺のあゆみ』尼見清市/文 堺商工会議所
『堺の歴史』関英夫/著 山川出版社
『堺記』関西大学中世文学研究会/編 和泉書院
戦国時代、堺の人々は貿易で得た豊かな富を使って町の周りに濠を作り、敵が容易に入れないようにして町を守りました。
豊臣秀吉に濠を埋められ、大阪夏の陣で堺の町は焼かれてしまいましたが、徳川家康が幕府を開くと、町を碁盤の目に区画し、埋められた濠をもう一度掘りなおしました。これが今の土居川です。川に「土居」という土の堤防を築いたというのが、土居川の名前の由来と言われています。江戸時代終わりごろの地図では、土居川に36も橋が架けられていました。
昭和40年代はじめには、市街地を囲む内川・土居川のうち北側と東側が埋められ、道路となり、残った川は工場廃水や生活廃水が流れ込んだため汚れてしまいました。しかし市民・企業・行政が協働で、環境改善に努め、今では水質の浄化も進み、「堺のんびりクルーズ」として観光船も運行されています。
参考文献:『むかしの堺』 (堺児童文化振興会)
『内川 土居川』 (堺市)
『フォーラム堺学』第9集(堺都市政策研究所)
日本と中国の正式な条約に基づいた貿易は応永11年(1404年)に始まりました。倭寇に手を焼いていた明の永楽帝と将軍足利義満との間に通商条約が結ばれたのです。
初めは兵庫(神戸)港を中心として行われていたこの遣明貿易ですが、文明8年(1476)から船が堺港に発着するようになりました。無事に帰国すれば利益は大きく、この貿易を独占することで、堺の町はますます豊かになっていきました。
参考文献:『堺-海の都市文明』角山 榮 (PHP研究所)
『堺のあゆみ』尼見 清市 (堺商工会議所)
『むかしの堺』別所 やそじ共著(堺児童文化振興会)
『堺かるたの本』別所 やそじ編(堺かるた普及会)
慶応4年(1868年)、堺を警備していた土佐藩士がフランス兵を死傷させました。土佐藩士20名の処刑がフランス人士官の立ち合いのもと妙国寺で行われましたが、割腹の様子があまりにも酷いものだったため、11人が切腹した時点で中止となりました。
堺事件を取り上げた小説には、『堺港攘夷始末』(大岡昇平/著 中央公論社)や『くじで決まった命』(木内恭子/著 けやき書房)などがあります。
参考文献:『むかしの堺』別所やそじ・尼見清市/共著(堺児童文化振興会)
『堺のあゆみ』尼見 清市 (堺商工会議所)
『むかしの堺』別所 やそじ共著(堺児童文化振興会)
『堺かるたの本』別所 やそじ編(堺かるた普及会)
南区片蔵の櫻井神社は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭神とし、推古朝に八幡宮を合祀したとされ、上神谷八幡宮とも呼ばれています。鎌倉時代に建てられた拝殿は堺市内で唯一の国宝に指定されています。また、鉢ヶ峯の國神社にまつられていた石燈籠と神像を保存しており、これは大阪府有形文化財に指定されています。
毎年10月の第1日曜の秋祭りで奉納されている「上神谷のこおどり」は国選択・府無形文化財となっています。元々は雨乞いのおどりから始まったとされており、踊りや衣装に室町時代の風流踊りの影響がうかがえます。
参考文献:『グラフViewさかい VOL.51』堺市市長公室広報担当/編 (堺市)
『上神谷のこおどり 国選択・大阪府指定無形民俗文化財』堺こおどり保存会
大安寺は堺区南旅篭(はたご)町東4丁にある由緒あるお寺ですが、とりわけ4室にわたって描かれたふすま絵は有名です。17世紀前半に狩野派によって描かれました。この絵には「絵師の苦心」という伝承が伝わっています。
大安寺に居候していた絵師が、別れの名残りにふすまに絵を描いて東国へ旅立ったが、一ヶ月もたたないうちに突然戻ってきました。理由を問うと、描いた松が何か物足りないと思い気にかかっており、道中で良い枝ぶりの松を見て帰ってきたといい、ひと枝描き添えました。そののち、再び旅立っていったということです。
この話は戦前の国定教科書にも載っていました。大安寺本堂と内部の障壁画(ふすま絵)は堺市の重要文化財に指定されており、平成27年秋季堺文化財特別公開での公開が予定されています。
参考文献:『むかしの堺』 別所やそじ/共著 堺児童文化振興会
『大安寺本堂障壁画公開』(パンフレット 平成14年)堺市教育委員会社会教育課
『尋常小学国語読本』巻11 文部省 [編] [ノーベル書房] 昭和4年刊の復刻
フランシスコ・ザヴィエルは1506年にスペイン東北部バスク地方のナバラ国の貴族の家に生まれました。成長したザヴィエルはパリ大学に留学し、宣教師となって海を渡り、アジアの国々への布教活動をしていました。その時に日本人と出会い、日本へ布教に行くことを決心しました。ザヴィエルが日本に渡った天文年間は戦国時代の真っただ中で、国内の移動は困難を極めましたが、親切な日本人に助けられたようです。
堺の豪商、日比屋了慶も宣教師を助けた一人です。了慶の屋敷はその後、南蛮寺として多くの宣教師達を迎えました。昭和22(1947)年、その屋敷跡に公園が計画され、戎(えびす)公園といっていましたが、昭和24(1949)年、ザヴィエルが日本へ来て400年を迎えた記念に、ザビエル公園という名称が使われるようになりました。市民に親しまれる公園となり今に至っています。
*ザヴィエルの表記は、堺かるたの表記にしたがっています。
参考文献:『フォーラム堺学 第六集』(フランシスコ・ザビエルと堺 角山榮/講演)
堺都市政策研究所
『むかしの堺』 別所やそじ・尼見清市/共著 堺児童文化振興会
『ザビエルからはじまった 日本の教会の歴史』結城了悟/著 女子パウロ会
平安・鎌倉期をつうじて、政治権力の中枢にあった村上源氏の流れをくむ北畠氏は、鎌倉時代から、居住地であった京都の北畠の地にちなみ、北畠を家名とした一族です。南北朝時代・室町から戦国時代末期までは、伊勢国司としてまた、戦国大名として、二百数十年の長期にわたり存続しました。
その北畠一族の中でも、北畠親房(きたばたけ ちかふさ)とその子、顕家(あきいえ)は、陸奥経営や、延元元(建武3、1336)年、後醍醐天皇の吉野遷幸による南北朝分立以来、南朝方の支柱として活躍したことで有名で、『太平記』や『増鏡』にもその活躍を見ることができます。
延元3(暦応元、1338)年、顕家は、北朝方の総大将、高師直(こうの もろなお)率いる足利軍と堺浦、石津で激しく戦い、21歳という若さで壮烈な戦死をとげました。死の一週間前に後醍醐天皇にあてて書かれた「顕家上奏文」には、国を治めることへの熱い思いがあふれています。
顕家の戦死の地については、大阪市阿倍野とする説もあります。大阪市阿倍野区北畠の町名は、顕家戦没ゆかりの地として顕彰し、北畠の名を冠したことが由来といわれています。
参考文献:『日本古代中世人名辞典』 平野邦雄/編 吉川弘文館
『日本古典文学大系87 神皇正統記』岩波書店
『花将軍 北畠顕家』 横山高治/著 新人物往来社
『伊勢北畠一族』 加地宏江/著 新人物往来社
16世紀後半、大坂城築城にあたり、豊臣秀吉は大坂の地に堺の商人を呼び寄せて住まわせました。それが現在の「堺筋」の由来ですが、堺に由来するのは大阪だけではなく、秀吉の後に続くように、全国の大名が商業振興を図るため、堺商人を城下町に呼び寄せたのです。大和郡山、広島、高知などの旧城下町に「堺町」「栄町」という地名が今でも残っています。
「堺」の名を冠した地名が全国各地にあるのは、うれしい限りですね。
参考文献:『角川日本地名大辞典 別巻1』角川書店
『堺市史 第三巻 本編第三』堺市編/著 堺市
『むかしの堺』別所やそじ/共著 堺児童文化振興会
新左衛門とは「曾呂利新左衛門(そろり しんざえもん)」のことで、秀吉に仕えた御伽衆(おとぎしゅう)の一人とされています。実在したかどうかも諸説ある人物ですが、堺で刀の鞘師(さやし)をしていて、その鞘に刀を入れると「ソロリ」とよく合ったのでそろりの異名を得たとされています(『堺鑑』)。逸話も多く伝わっていますが、後世に作られたものも多いようです。人前で秀吉の耳のにおいをかぎ、告げ口をしているようにみせて諸侯から贈り物をもらう話等がよく知られています。
参考文献:『堺鑑』 衣笠一閑/著 小谷城郷土館 (武村市兵衛 1684の復刻)
『堺市史 2 (本編第2)』堺市役所/編纂
『堺市史 7 (別編)』 堺市役所/編纂
『曽呂利新左衛門』 安藤英男/著 鈴木出版
『戦国百人一話 2』 青人社
『堺かるたの本』 別所やそじ/編 堺かるた普及委員会
『曽呂利新左衛門史料考』日下義臣/著
南宗寺は、戦国武将・三好長慶(みよし ながよし)が祖先を供養するため大林宗套(だいりん そうとう)を開山として弘治(こうじ)3年(1557)に大規模な寺院として建てられました。創建当時は、武野紹鴎(たけの じょうおう)、北向道陳(きたむき どうちん)、千利休(せんの りきゅう)などの商人・茶人を通じて堺の町衆の文化が大いに発展しました。大坂夏の陣で堺が全焼した際、南宗寺も焼失しましたが、「元和(げんな)の町割り」といわれる堺の復興事業で当時の住職であった沢庵宗彭(たくあん そうほう)によって現在の地に再興されました。南宗寺には、茶人・古田織部(ふるた おりべ)好みの枯山水の庭園(国の名勝庭園に指定)のほか、千家一門や武野紹鴎ら茶人の墓や供養塔があります。
三百年以上前に始まったと伝わる百舌鳥八幡宮の秋祭りは、中秋の名月にあたる旧暦八月十五日に行われていたため「月見祭(つきみまつり)」と呼ばれています。
祭りでは「ベーラ ベーラ ベラ ショッショ」の掛け声のもと、子どもたちが太鼓をたたく「ふとん太鼓」による勇壮華麗な宮入・宮出が行われ、十万人規模の人出で賑わいます。
地元九町の住民によるふとん太鼓の担ぎ手は、年齢層が十八歳位から五十歳代までと幅広く、こども太鼓も加えると親子三世代で参加する家庭もあり、地域の文化・伝統が受け継がれる行事となっています。
参考文献:『フォーラム堺学 第14集』堺都市政策研究所
『むかしの堺』別所 やそじ/共著 はとぶえ会
『大阪の祭』旅行ペンクラブ/編 東方出版
『日本の祭り4 近畿編』『日本の祭り』編集室/編 理論社
『大阪府神社名鑑』大阪府神道青年会/編集 大阪府神道青年会
『難波大阪 郷土と史蹟』牧村 史陽/編 講談社
『堺の歴史』関 英夫/著 山川出版社
『大阪伝承地誌集成』三善 貞司/著 清文堂出版
行基は668年、現在の堺市西区で生まれました。15歳で出家し、のちに、生家を寺に改め造ったのが家原寺です。中区の土塔建立など、日本中に様々な伝説を残している行基ですが、仏教を説くとともに、ため池などの開発をすすめたり、朝廷のために働く者へ宿泊や飲食を提供する布施屋を建てたりと民衆のために尽力しました。
民衆から信頼を集めた行基は、朝廷から弾圧されることもありました。しかし、行基は布教を続け、743年、東大寺の大仏造営の勧進にも起用され、ついに朝廷から僧の最上位である大僧正に任じられました。大仏鋳造が続く中、749年2月2日、民衆のために尽くした行基は82歳でその生涯を閉じました。
参考文献:『大阪春秋 第122号』新風書房
『むかしの堺』別所 やそじ/共著 はとぶえ会
『行基』堺市博物館/編集 堺市博物館
『行基』吉田 靖雄/著 ミネルヴァ書房
『行基事典』井上 薫/編 国書刊行会
『民衆の導者 行基 日本の名僧2』速水 侑/編 吉川弘文館
『土塔と行基』堺市市長公室文化部文化財課/編集 堺市
『行基資料集』大阪狭山市史編さん委員会/編集 大阪狭山市役所
潮湯浴(しおゆあみ)とは、海水を沸かして混浴することです。堺は海に近く、海水温浴場があったので、平安時代に熊野信仰が盛んになると、多くの人が堺に潮湯浴に訪れるようになりました。また、『堺鑑』には、行基が堺の海辺に井戸を掘り、石像の薬師如来を安置すると如来の胸から清水が沸きでてこれをお風呂に入れて入浴すれば万病が治ったという潮風呂伝説が記録されています。
その後、大正時代にも潮湯ブームになりましたが、現在は大阪府内では出島海岸通にある湊潮湯1軒だけです。
参考文献:『堺市史』第1巻 堺市役所/編纂
『堺の歴史』 関英夫/著 山川出版
『むかしの堺』 別所やそじ/共著 はとぶえ会
『堺歴史散歩』 徳永真一郎/著
『堺鑑』 小谷城郷土館
『大阪春秋 第16号』 新風書房
『フォーラム堺学 第8集』 堺都市政策研究所
堺市西区にある石津太神社は延喜式(927年)の神名帳にも記載のある由緒ある神社で、境内にある一の鳥居は堺市内で最も古い鳥居と言われています。「やっさいほっさい」はその石津太神社で毎年行われる火渡りの神事で、12月14日の夜、拝殿の前のひろばに108束の薪をつみかさねて燃やし、残り火の上を「やっさいほっさい」のかけ声で、若者が神人をかついで火の中に飛びこむという勇ましい祭りです。
百舌鳥古墳群は、エジプトのクフ王のピラミッドと秦の始皇帝陵とともに、世界三大墳墓の一つに数えられる「仁徳天皇陵古墳」をはじめとする古墳44基から成っています。平成29年7月31日、「百舌鳥・古市古墳群」がユネスコへの世界文化遺産国内推薦候補に決まりました。引き続き平成31年の世界文化遺産登録をめざすとともに、この“たから”を人類共有の遺産として次世代に引き継いでいくことが私たちの使命といえるでしょう。
参考文献:『百舌鳥古墳群(ハンドブック堺の文化財)』
堺市文化観光局文化部文化財課/編集 2017年 堺市文化観光局文化部文化財課
『国内推薦決定 堺の宝 百舌鳥・古市古墳群(堺シティレポ)』
堺市/企画・著作 堺市 *DVD
大仙陵(仁徳天皇陵古墳)は全長486mの前方後円墳で、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並んで世界三大墳墓のひとつに数えられています。当時の工法では、延べ680万人もの作業員が必要で、1日最大2千人が働いても完成までに15年8ヶ月かかるとの試算もあり、どれだけの大事業であったかがしのばれます。
現在は古墳を1周する遊歩道もあり、この雄大な古墳を実感することができます。
参考文献:『百舌鳥古市古墳群 世界文化遺産を大阪に』
百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議/出版
『百舌鳥古墳群ガイドブック 古墳のなぜ?なに?』
堺市博物館/編集 堺市 *DVD
16世紀半ば、種子島に鉄砲が伝来すると、堺はただちに製造法を学びました。貿易港をもち物資流通の拠点であった堺は、原材料などの調達ルートが確保でき、それをまかなえる資本力もあったうえ、平安時代の河内鋳物師や鍛冶が集まる金属産業の伝統もあったことから、鉄砲の一大生産地へと発展しました。
多くの戦国武将が堺の鉄砲を求めましたが、江戸時代になると大きな合戦がなくなり、堺の鉄砲産業は衰退したと考えられていました。しかし、現存する最古の鉄砲鍛冶屋敷である井上関右衛門家(堺区北旅籠町西)で2014年に発見された大量の古文書の調査により、江戸時代後期にも多量の鉄砲の注文を受けていたことが判明し、江戸時代の鉄砲産業の研究に影響を及ぼしています。
参考文献:『堺鉄砲―その源流と背景をさぐる―』 堺市博物館/編 堺市博物館
「堺の鉄砲鍛冶」(『フォーラム堺学 第3集』
堺都市政策研究所/編 堺都市政策研究所)
『堺の鉄砲鍛冶』 小谷方明/著 広文堂
『堺の鉄砲』 藤田正弘/著
関西大学HP「トピックス(詳細)2017年度」