江戸時代の初期の享保年間(1716-36)に描かれたものを、『堺市史』編纂のため大正14年(1925)に写したものです。 後円部の墳頂が仁徳天皇の御廟(墓所)として立ち入りできないよう竹垣が設置されていました。