臨海工業地帯造成による従業員の住宅確保や、大阪府下の人口増加と世帯細分化による新規住宅需要に応えるため、千里ニュータウンに続き、泉北ニュータウンの開発が企画されました。昭和40(1965)から工事が始まり、昭和42年(1967)の宮山台を皮切りに順次入居が進められました。

写真:『泉北ニュータウン北西部地域開発前航空写真』
上空から見た開発前の様子
『泉北ニュータウン北西部地域開発前航空写真』より

入居が始まった当初の悩みとして、交通手段が乏しいことが挙げられました。昭和45年(1970)の泉北ニュータウンの交通機関はバスのみで、運賃も旧市内(主に現堺区)の一律30円に対し、泉北ニュータウンから阪和線津久野駅までで80円でした。

最終的な通勤・通学者の人口が約6万人と見込まれている中、新鉄道の導入はニュータウンの開発に不可欠でした。念願であった泉北高速鉄道は、中百舌鳥―泉ヶ丘間が昭和46年(1971)4月に、泉ヶ丘―栂・美木多間が昭和48年(1973)12月に、光明池駅までの全線が昭和52年(1977)8月に開通し、交通手段問題が解決されました。

『泉北高速鉄道全線開通記念乗車券』

写真:『泉北高速鉄道全線開通記念乗車券』光明池―難波間
光明池―難波間
写真:『泉北高速鉄道全線開通記念乗車券』光明池―中百舌鳥間
光明池―中百舌鳥間
写真:『泉北高速鉄道全線開通記念乗車券』光明池―栂・美木多間
光明池―栂・美木多間

宮山台のまちびらきから12年、昭和54年(1979)には新檜尾台の入居が開始され、これにより泉北ニュータウンすべての町のまちびらきがなされました。

その後も開発は続き、泉北消防署や光明センタービル、泉ヶ丘市民センター等さまざまな施設が設けられました。

事業としての開発は昭和58年(1983)3月に終了し、事業主体であった大阪府企業局から堺市へ引継がなされ、現在に至ります。

写真:当館アルバムより昭和64年(1989)頃の泉ヶ丘市民センター
昭和64年(1989)頃の泉ヶ丘市民センター
当館アルバムより