臨海工業地帯の造成
戦後、財政危機に苦しむ堺市は、市税収入を増加させ赤字を解消するために、工場誘致政策に力を入れました。
昭和27年(1952)には「工場を堺市へ」と題するパンフレットを商工会議所や会社へ発送し、昭和28年(1953)には条例にて、要件に該当した工場に対して3年間の固定資産税を免除することを定めました。
そして臨海地帯への誘致企業第1号として、同年7月に大日本製糖堺工場が三宝地区で操業を開始しました。
昭和29年(1954)には、工場設置を希望する企業家に対して市内の交通・電気・ガス・水道・住宅・労働力等を紹介する冊子『堺市工場適地案内』を刊行し、関係各方面へ配布しました。
しかし戦後10年の間に誘致できた大企業は大日本製糖1社のみで、引き続き赤字解消に頭を悩ませていた堺市は、国際空港や大造船所の誘致を検討しますが実現には至りませんでした。そんな中、臨海工業地帯の造成計画が持ち上がります。
昭和32年(1957)に政府は新長期経済計画を発表しました。それを受けて大阪府は、経済発展のためこれまで比重の高かった軽工業から重化学工業への比重を増やすべく、原材料や製品の輸送に便利な泉州沿岸を臨海工業地帯として造成することにしました。
昭和33年(1958)に入ると八幡製鉄株式会社(現在の日本製鉄株式会社)より堺地区進出の意志表示がありました。堺市の財政危機を救うものとして大歓迎され、昭和34年(1959)4月に第2区埋立地への誘致が決定しました。昭和36年(1961)に堺製鉄所として開所され、堺一の大工場を誇ることになります。
『堺製鉄所建設誌』より
ガス・電力・石油・化学などの重化学工業がつぎつぎと進出してコンビナートを形成し、工場地帯の造成が進む一方、かつて多くの人でにぎわっていた浜寺海水浴場は失われてしまいました。その代わりとして、浜寺公園遊泳場(現在の浜寺公園プール)が建設されることになり、昭和38年(1963)夏にプール開きが行われました。
遊泳場には、50メートルプール2面、25メートルプール3面、最大直径140メートルの変形大プールや児童用プールがあり、「東洋一のプールが出現した」と報じられました。
『堺・泉北臨海工業地帯造成事業概要』(昭和34年(1968)刊)より