復興と文化財保護
戦後、堺市は復興部を設置して復興事業を開始しました。しかしまもなく戦災都市に指定され、国の戦災地復興計画基本方針に基づいて、大阪府のもと復興事業が行われることになりました。大阪府による復興事業は昭和21年(1946)から昭和34年(1959)にかけて実施され、その後を堺市が引き継ぎました。最終的に事業が終了したのは、終戦から20年後の昭和40年(1965)のことでした。
この間に臨海工業地帯の造成、泉北ニュータウンの開発も始まり、堺市はだんだんと現在の姿へ近づいていくのでした。
『復興のあゆみ』より
『堺文化』第1輯
しかし復興のために都市開発を行うことは、戦災により破壊された史跡名勝天然記念物等をさらに破壊する行為でもあります。
そこで堺市古文化調査研究会が組織され、堺市の古文化の調査・保護が行われました。メンバーには詩人・安西冬衛、図書館司書・河野文吉、大安寺住職・吉田敬道等がいました。
安西冬衛
安西冬衛(あんざい ふゆえ)は「てふてふが一匹韃靼海峽を渡って行つた。」で有名な詩人で、堺市役所の職員でもありました。戦前の市歌「堺市歌」は安西冬衛の作詞であり、また市内の学校の校歌にも安西冬衛の作詞のものが多く見られます。
没後、当館に蔵書が寄贈され、安西文庫として保管されています。安西文庫を見ると、安西冬衛が文芸のみならず、地理歴史にも興味を抱いていたことが分かります。
『堺製鉄所所歌/堺製鉄所安全歌』より
河野文吉
河野文吉(かわの ふみきち)は堺市立図書館の司書で、堺の歴史文化に詳しい人物でした。その姿は戦中の図書館長・田島清の回想録『回想のなかの図書館』に「市史についてはなかなかたいした教養の持主である」、「郷土史の探求に異常な熱意をいだいている」、「真に文化を護る人は、焼け残りの書庫の中でコツコツと図書の整理をやっていた河野文吉君であった」等と記されています。
なお、河野家は『堺市史』に立項されている医師兼儒者・河野鳳渚(かわの ほうしょ)の家であり、伝来の古典籍等が河野文吉により当館に寄贈されています。
河野文吉は、堺市に関係する古典籍等の書き下しや、堺市の過去の様子を綴った随筆等、多数の著作を残しており、特に『頭註全堺詳志』が有名です。
吉田敬道
吉田敬道(よしだ けいどう)は大安寺(堺区)の住職を務めていた人物です。
戦後の復興のなかで旧市街地(主に現堺区)に点在する墓地を移転・集約する事業が行われましたが、吉田敬道は、これにより墓碑等の石造物が散逸・廃棄されることに危機感を覚え、記録・調査を行いました。1年程の期間で900基以上の石造物を調査しており、熱意の高さが伺えます。その成果は『全盛期の堺』という著作にまとめられ、当館に残されています。また草稿や、調査票も残されています。
(『全盛期の堺』草稿)