空襲
昭和19年(1944)になると、堺市への空襲が現実的な想定になってきました。
堺の町の建物には木造のものが多く、空襲を受ければ家から家へと燃え広がり、甚大な被害となることが予想されます。そこで内務省からの実施指示により、大阪府の事業として、火災被害を減らすため、事前に一部の建物を撤去しておく、建物疎開が行われました。
しかしそれは歴史ある堺の景観を失うことでもあります。そこで堺市は堺芸術報国連盟に委嘱し、絵や文章、写真等で、堺の街並みを記録に残す事業を行いました。
『堺市第一次疎開地区記録』(岸谷勢蔵 画)より
『堺市第一次疎開地区記録』(岸谷勢蔵 画)より
『堺市疎開地記録写真』より
『堺市疎開地記録写真』より
※『堺市第一次疎開地区記録』や『堺市疎開地記録写真』は令和7年(2025)12月19日付で堺市指定有形文化財に指定されました。
昭和20年(1945)3月13日、とうとう堺市も空襲被害を受けました。その後も6月15日、6月26日、7月10日、8月10日と爆撃を受け、堺市への空襲は計5度にのぼりました。特に7月10日の堺大空襲はすさまじく、1時間半の間、10万発近くの焼夷弾が降り注ぎ、市民の3分の1にあたる7万人もの人々が罹災しました。これにより旧市街地(主に現堺区)の6割が灰燼と化しました。
その後8月15日、ポツダム宣言を受諾する旨がラジオ放送され、人々は敗戦を知ったのでした。
『昭和20年大阪・堺空襲写真25枚』より
『復興のあゆみ』より
『堺市制施行七十年誌』より