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図書館トップページ> 地域資料のページ> Web版『堺大観』写真集>南宗寺境内利休の塔 |
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千利休は当時の茶道三宗匠の一人で、幼名を田中与四郎、魚問屋・納屋(倉庫業)を父の死後、17歳から営んでいた。北向道陳(きたむきどうちん)や武野紹鴎(じょうおう)に茶道を習い、「侘び茶」を大成させた。禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため正親町(おおぎまち)天皇より「利休居士(りきゅうこじ)」の号を賜る。墓は京都大徳寺聚光院(じゅこういん)にあるので、こちらは利休の供養塔である。昭和30年(1955)、南宗寺塔頭(たっちゅう)の海眼庵(かいげんあん)(天慶院)より移設された。