大正天皇はかねてより静養中でしたが、大正15年(1926)末より特に容体が悪化し、その様子は新聞号外で報じられるほどでした。

これを受け、日本各地の神社で病気からの快復を祈る平癒祈願祭が執り行われました。
この平癒祈願祭は、堺市役所・堺市会(現在の堺市議会)によっても行われ、市会議員等が開口神社等にて拝礼しました。

その後、大正15年(1926)12月25日、大正天皇の崩御が報じられました。ラジオにてその報を知った堺市役所は職員を非常召集し、各種事務に当たりました。

27日には、崩御を悼む敬弔式を堺水族館庭園(大浜公園内)にて挙行しました。当日の参列者は600から700名にも上ったとのことです。

写真:『大喪日誌 大正拾五年十二月二十五日』
昭和元年(1926)12月27日の敬弔式場の様子
手前の縦縞は鯨幕 奥の建物は堺水族館
『大喪日誌 大正拾五年十二月二十五日』(堺市役所庶務課)より

また崩御の報より45日後の昭和2年(1927)2月7日から8日にかけて、東京の新宿御苑にて、大正天皇の葬儀である大喪が執り行われました。

これに合わせ、堺市は2月7日、堺水族館庭園にて遥拝式(遠隔での拝礼)を執り行いました。当日の参列者は3,000名にも上りました。

ラジオ

堺市職員が大正天皇崩御の報を受け取ったのはラジオからでしたが、当時のラジオは、日本では前年にあたる大正14年(1925)3月に放送が開始されたばかりの新参メディアでした。

しかし不特定多数の人々に向けてリアルタイムで情報を伝達できるという特性を活かし、大正天皇崩御前後の報道に大きく貢献しました。