図書館トップページ> 地域資料のページ> デジタル郷土資料展目次> 旧堺燈台の建築 |
明治10年(1877)に木造洋式燈台として完成した旧堺燈台は、対外条約に基づく他の官設燈台とは異なり、資金や技術の多くを堺の住民によっていることが特徴です。
燈台の建築費用は、築造費に2,125円20銭5厘、器械据付費360円82銭3厘(『堺市史』)を要しましたが、その多くは町民の寄付によるものでした。
当館には、「堺旧港修築記録」という名称の文書群を所蔵していますが、その内容は旧堺燈台建設に関するものがほとんどです。
そのなかで、当時の塗装についての史料も残されています。旧堺燈台は、今日まで数度にわたり大規模な修繕が行われてきたため、建築当初の塗装がほとんど残っておらず、予定されている復原工事のための貴重な資料となります。
内容は『堺市史史料』の「堺港燈台起原沿革等取調上申書」と同じで写しであろう。山家屋は江戸時代から続く商家で、写しを持っていたことは、当時の町衆と燈台の強い関係を示すものといえる。
山家屋利兵衛文書
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
燈台本体部建築費の見積書。明治9年11月28日付で、小川喜平と大眉佐太郎が連名で発行している。大眉は、建築を請け負った堺市中の大工である。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
点灯器械は、政府の燈台寮が御雇いイギリス人の指導で製作したが、これはその据付台の図面である。単位は「フート」(フィート)となっている。堺燈台の六角形ではなく、当時の官製燈台の標準形である八角形を準用している。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
明治10年(1877)8月の堺副区長の報告。点灯器械の取付は、燈台本体が完成した4ヶ月後に、政府の御雇いイギリス人技師、ビグルストンらにより行われた。宿泊に際し、彼のために当時珍しかったビ−ルや牛肉などが用意された。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
明治10年(1877)7月25日付で、大工の大眉佐太郎らが堺区長に宛てた、燈台外の門扉新築の見積り書と図面である。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
当時まだ国産品のなかったペンキの入手ルートを知ることができる史料である。「ペンキ塗師棟梁」の名が見える。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
建築当初の塗装仕様を知ることができる。特に内部については「木目塗」(もくめぬり)という手法で塗装した上、さらにワニスで仕上げが行われていたようである。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
明治10年(1877)9月に堺の石工、継国真吉が「標燈台御掛リ」に提出した費用明細で、総合計は1,377円74銭8厘5毛となっている。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
ペンキ塗りが落成したため、明治10年(1877)9月11日付で支払の伺が提出されている。この直後の、9月15日から旧堺燈台は正式に点灯された。
堺旧港修築記録
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
明治13年(1880)に、堺港の石垣補修を、燈台新築を請負った石工、継国真吉などに命ずることについての、堺区長から堺県令への伺書。燈台もふくめ堺港の維持管理は、もっぱら地元がになった。
一大区四小区関係文書
『堺研究』第31号
参照
『堺研究』のページへ
画像をクリックすると、拡大画像をご覧になれます。