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江戸時代の堺港の燈台の変遷については、当館所蔵の『堺市史史料』に収められている「堺港燈台起源沿革等取調上申書」(『堺市史』第6巻に「堺港燈台起源沿革書」として掲載)に記録が残されています。
これによると堺港の燈台は、元禄2年(1689)に初めて市中の商人の寄金で建築されて以降、明治10年(1877)の洋式燈台まで7期にわたって、位置を変えながら新設されていったとされています。
堺港は、特に宝永元年(1704)の大和川付替え以降、土砂の流入などにより修築をくりかえしました。それにあわせて、燈台も規模を大きくしながら位置を変えていったのです。それは同時に堺の町の発展を表すものといえます。
明治16年(1883)、工部省統計課の照会により、「堺港燈台名代人」正木林作が堺区長一樋作兵衛に宛てたもの。元禄から明治まで7期にわたる燈台の変遷が報告されている。
『堺市史史料』第145巻 所収
元禄5年(1692)から明治18年(1885)の堺港のうつりかわりが描かれている。『堺市史』(昭和6年完結)編纂のため作図されたものと考えられる。ただし灯台堂の位置については、中井正弘氏の研究で不正確との指摘がある。
天保期の港の様子で、みおつくし(大阪市の市章になったもの)、舟役所などの港湾施設のほか茶屋などが立ち並び、当時の賑わいをよく表わしている。中央に描かれている燈台は、文政12年(1829)に大波止の付け根に築造された、第5期のもの。
小波止(現・北波止)の中央に描かれているのが第6期の灯台で、弘化年間(1844〜48)の築造とされている。当初に焚火を用いたため「遥明台」と称されたという。なお第5期の燈台のあった場所は「元高灯篭」と書かれている。
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