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堺の酒造は、室町時代の『蔭凉軒(いんりょうけん)日録』(15世紀半ば)にも登場しており、江戸時代に最盛期を迎えました。明治になっても100軒(多くは個人)近くの酒造業者があり、生産高は6万石を上回っていました。当時の引札(現在でいう広告チラシ)に、酒造業のものが多いことからもその繁栄ぶりが伺えます。
明治12年(1879)、鳥井駒吉が中心になって酒造組合が組織化され、「堺醸造改良試験所」を設立して酒造業の振興と醸造法の改良が行われました。その後、それまでの樽による酒の販売から、ビン詰めにして酒を販売し、日本酒は国内だけではなく、韓国・ロシア・アメリカ等の海外にも輸出されました。
明治・大正期を通じて繁栄していた堺の酒造業ですが、良質の水が不足がちで、また市街地が密集する堺では酒造のための敷地を広げることが困難でした。このため堺の酒造家は、相次いで灘に進出することになって、しだいに堺の酒造は衰退していくことになりました。
それでも戦前までは20数軒の酒造家が酒造りを行っていました。しかし戦時下において酒造が制限されて、18軒あった酒造業者は、昭和18年(1943)、堺酒造株式会社に一本化されました。戦争で多くの酒蔵は焼失し、戦後、堺酒造は新泉酒造と名前を変え、昭和47年に灘の酒造メーカーと合併して堺の酒造は消滅しました。
ところで、灘に移った堺の銘酒ですが、金露(金露酒造)や都菊(肥塚酒造)は、平成7年(1995)の阪神大震災によって被災し、その後その幕を閉じました。一方、同じく戦後、灘に移った大澤本家酒造は、現在も営業を続けられています。
大澤本家酒造 http://www.ohsawasyuzo.com/