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引札(ひきふだ)は、今でいう広告チラシのことで、幕末・明治から大正期にかけて大量に発行されました。関西では、当時から「チラシ」といわれたそうです。
引札は、広告宣伝を高めるために、図柄には縁起物が描かれました。恵比寿、大黒天などの七福神や福助、古今東西の美しい女性など様々です。
引札が町で配られていた頃、堺で住吉・堺の商家の様子を描いた本が出版されました。明治16年(1883)、川崎源太郎の『住吉・堺豪商案内記』です。『豪商案内記』にある商家の中には、当館で所蔵している引札と重なるところがあります。これらを並べ、引札と実際の商家とを対比させてごらんください。
与謝野晶子の生家として有名な菓子店です。現在「駿河屋」跡近くに与謝野晶子の歌碑が建てられています。
「駿河屋」は、また一面で、『豪商案内記』にあるように店の上に当時では珍しい大時計が掛けられ、「唐糸・綛糸商」とあるように貿易を商う店でもあったようです。
開明的な商家であったことは、晶子の兄「鳳(ほう)秀太郎」が、著名な電気工学博士であったことからも推測されます。
この店で商う「丹」とは、中国伝来の絵具や工芸用に使用するもので、江戸時代にはごく限られた人にしか幕府の許可は得られませんでした。堺の鉛市兵衛は、その中でももっとも古く、室町時代に明人から製丹の方法を学び製造していました。
丹製造所は、その後昭和の戦前まで「堺エナメル合名会社」として、琺瑯(ほうろう)鉄器を製造していました。
戦国から江戸時代にかけては、堺で大量の鉄砲が製造されました。ところが元禄期以降平和な時代が続く中で、鉄砲の生産は少なくなり、明治の頃は主に猟銃を製造していたようです。
現在も堺区北旅籠町に住居が残り、鉄砲を製造するときの大フイゴや鉄砲の完成品が保存されています。