![]() |
図書館トップページ> 地域資料のページ> デジタル郷土資料展目次> 江戸時代の堺・観光 |
和泉名所図会には、堺の名所として、神社仏閣や天皇陵・廓などが描かれています。中でも妙國寺(みょうこくじ)の蘇鉄は有名で、当地を訪れた旅人のほとんどが見物をしたといわれています。
妙國寺は、室町時代後期の永禄5年(1562)に三好実休(義賢)が寄進し、日珖(にちこう)上人によって開山しました。蘇鉄(そてつ)は、高麗から移植されたと伝えられています。『和泉名所図会』では、周囲2丈5尺(約7.6m)、高さ2丈余(約6m)とあり、江戸時代・堺観光の名物でした。大坂夏の陣や第二次大戦の堺空襲で、妙國寺の本堂は焼けましたが、蘇鉄は、当時のまま現代に残っています。国の天然記念物(大正13年)に指定されています。
妙國寺の蘇鉄は、織田信長によって安土城へと移植されたのですが、毎夜「堺へ帰ろう、妙國寺へ帰ろう」とすすり泣き、激怒した信長が、蘇鉄を切ったところ切り口から鮮血が流れ、さすがの信長も気味が悪くなり、寺に返されたといわれています。
この話は『英傑三国誌伝』 (秋草庵、梅窓園(歌川貞芳)画 江戸後期頃刊 愛知県立図書館蔵)にも描かれています。愛知県立図書館のホームページで公開されています。
明治時代、鉄道で堺へ観光に来ると、人力車はまず客を蘇鉄で有名な妙國寺に連れていったそうです。今でも近くの北旅籠町周辺では刃物造りが盛んですが、客は、妙国寺門前の刃物店で土産の包丁を買いました。(現在の泉陽高等学校あたりになります。)
「朝霧や蘇鉄見に行く妙国寺」正岡子規が、明治25年(1892)、夏目漱石と妙國寺を訪れたときを詠んだ句です。
また、漱石はそのとき門前で刃物を買ったことを、明治44年(1911)8月、市立堺高等女学校(現在の泉陽高校)の講演会で話しています。(「中味と形式」『漱石全集』第16巻所収)
万治元年(1658)に建てられた三重塔は、昭和20年の空襲で焼失しました。この太平洋戦争で、堺市内のほとんどの寺社が焼失し、開口神社にあった三重塔も焼失しました。
慶応4年(1868)、堺港へ上陸したフランス兵と堺を警備していた土佐藩士との間で争いが起り、多数のフランス兵が死傷しました。この事件は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士11名が、妙國寺境内で切腹しました。
秋里籬島(あきさと りとう)[生没年不詳]によって、寛政8年(1796)に編集されました。堺は当時、北部(北ノ庄)は摂津、南部(南の庄)は和泉に分かれていましたが、南北ともこの「和泉名所図会」にまとめられています。江戸時代の堺の名所(観光地)のほか、風俗・名産などが描かれていて、当時の堺の様子を知ることができます。籬島によって、京都、河内、摂津などの名所図会が出版され、名所ブームの火付け役になりました。