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切手:河口慧海肖像

河口慧海は現在の堺区北旅籠町西に生まれました。幼名は定治郎(さだじろう)。錦西小学校、土屋弘(鳳州)の晩晴塾、東京の哲学館(現、東洋大学)に学びました。慧海は、チベット語訳の仏教原典を求めて明治30年および37年の二回にわたりチベットへ入国しました。その旅行記(『西蔵旅行記』)は、仏教学者だけではなく民族学者、探検家にも高く評価され英訳も出版されました。晩年は僧籍を返上して在家仏教を提唱しました。

右は、2002年12月にネパールで発行された慧海の切手です。

『改正修身 人の基』土屋弘・著
 明治9年(1876年)
写真:『改正修身 人の基』土屋弘・著
儒学者・土屋弘は、明治5年から、当時の堺県で、教育行政に携っていましたが、そのかたわら、堺の戎之町の自宅に晩晴塾(晩晴書院)という私塾を開き、そこで漢籍・詩文、修身を教えました。これは修身の教科書です。河口慧海もこの塾で学び、読書力・文章力を身に付け、チベット旅行の大いなる助けとなりました。

『西蔵(チベット)旅行記』河口慧海・著 明治37年(1904年) 博文館
写真:西蔵旅行記
『西蔵旅行記』は明治36年の河口慧海のチベット探検からの帰国後、口述筆記によって新聞連載されたものが評判になって、翌年上下巻の単行本として出版されたものです。

『Three Years in Tibet(チベットの三年)』河口慧海・著 明治42年(1909年)
写真:Three Years in Tibet
河口慧海のチベット探検は、海外でも高く評価されました。慧海の『西蔵旅行記』の英訳である本書は、帰国6年後にインド・マドラスおよびロンドンで出版されました。

『平易に説いた釈迦一代記』河口慧海・著
 昭和4年(1929年) 金の星社
写真:『平易に説いた釈迦一代記』
それまでの釈迦の伝記は難しいものが多く、また読みやすいものは荒唐無稽で、釈迦の徳を傷つけているものが多い状況でした。慧海は、梵語の原典、チベット語訳、漢訳の釈迦の伝記を比較し、インド仏蹟の地理と照合してわかりやすく記述しました。

『正真仏教』河口慧海・著 昭和11年(1936年) 古今書院
写真:『正真仏教』
『在家仏教』『菩薩道』等に記述した所説を根幹として整理統合し、さらに推敲を加えたもので、釈迦の正法を高揚したものです。慧海の後半生の主張はこの一書に要約されています。

河口慧海生家の跡
写真:河口慧海生家跡
河口慧海は、慶応2年(1866年)陰暦正月12日、浜筋山伏丁、後の堺区北旅籠町西3丁11番屋敷に生まれました。

河口慧海像(南海本線七道駅前)
写真:河口慧海像
昭和58年(1983年)河口慧海の生家跡に近い、南海本線七道駅に堺ライオンズクラブの創立25周年記念事業として建てられました。険しいヒマラヤの岩場を越えてゆく慧海の姿が彫刻家・田村務氏によって制作されました。

清学院
写真:清学院
河口慧海は、幼少の頃、清学院で行われていた寺小屋で読み書きと算盤を学んでいました。明治5年(1872年)に学制が発布されると第七区分校(現在の錦西小学校)に入学し勉学に励みましたが、明治10年、家業の樽屋を継ぐため退学させられました。しかし向学心が旺盛であったため、後に戎之町にあった私塾・晩晴書院に入りそこで漢学等を学ぶうちに仏教と出会うことになりました。

河口慧海の生まれた町「北旅籠町」
写真:北旅籠町界隈
「北旅籠町」は、堺市の北西部、南海本線七道駅の東側に位置しています。このあたりは江戸時代初期に建てられた「井上家」(鉄砲鍛治屋敷町跡)や河口慧海が幼少の頃に学んだ寺小屋があった「清学院」など、歴史的な建築物が現在も多数残されています。