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堺と包丁

堺の包丁づくりは、古代からの河内鋳物師(いもじ)のすぐれた鋳物技術を源とし、安土桃山時代に「おかた包丁」といわれた「たばこ包丁」や岩をも割る堅牢な「石割包丁」がその起源といわれています。これらの包丁は、盛んに売り広められたのですが、やがてニセモノが作られるようになりました。そこで、「堺極(さかいきわめ)」というシルシを包丁に刻むようになり、幕府の力で全国に売り、堺包丁は全国に名を広めることになりました。

堺の包丁は、昔から現在まで北旅籠町・桜之町・綾之町・錦之町・柳之町・九間町・神明町あたりでつくられ販売されています。


写真:「左海(堺)たばこ庖丁鍛冶」の石灯籠
「左海(堺)たばこ庖丁鍛冶」天保5年(1834)建立
堺区の宿院交差点にあるこの石碑のあたりは、江戸時代、山の上(やまのうえ)とよばれ、包丁が盛んに作られていました。元禄時代に刀工・山之上文殊四郎一門が料理包丁を鍛えて非常にすぐれた出刃包丁や薄刃包丁をつくって、堺包丁の名を高めました。

写真:和泉名所図会より「打物所」
『和泉名所図会』寛政7年(1795)
秋里籬島著・竹原春朝斎画

『大日本物産図会』
『大日本物産図会』は、明治10年の第1回内国勧業博覧会にあわせて販売されたといわれています。安藤徳兵衛(三代広重)が描き、東京日本橋1丁目の錦問屋大倉孫兵衛が出版しました。各地の産業・特産物を描いた『大日本物産図会』に含まれる錦絵の総数は、120図といわれます。
(泉州打物見世之図)
写真:泉州打物見世之図
(木綿ヲ摘取ル図)
写真:木綿ヲ摘取ル図
(河内木綿織機之図)
写真:河内木綿織機之図

『戎嶋紡績所絵図』
写真:戎嶋紡績所絵図
薩摩藩・島津久光によって、最初の紡績所が鹿児島につくられました。ただ鹿児島は、消費地に遠く、原料の入手がむずかしかったので、河内・和泉の木綿の産地で、取引の中心地・大坂に近い堺に紡績所がつくられることになりました。
明治3年(1870)に創業した堺紡績所は、官営になった後、明治11年に民間に払い下げられ川崎紡績会社→泉州紡績株式会社→岸和田紡績株式会社と変わりました。創業当初は、物珍しさから見学料を払って工場を見学する人が列をなしていたといわれています。
昭和8年(1933)に老朽化により閉鎖されましたが、堺紡績所は、泉州地域の繊維・織物業発展の礎になりました。

写真:明治天皇御駐蹕之跡の石碑
『明治天皇御駐蹕(ちゅうひつ)之跡』
昭和15年(1940)建立(堺区戎島町1丁)
明治10年(1877)、明治天皇が関西地方行幸の折、堺紡績所を見学されました。そのことを記念して、堺紡績所閉鎖後、記念碑が建てられました。行幸のときに使われた椅子は現在、堺市立熊野小学校で保存されています。