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カット:伊東静雄
小展示「伊東静雄と10人の詩人たち」
美原図書館 平成27年3月ブックフェア

小展示「伊東静雄と10人の詩人たち」

伊東静雄は住吉中学(当時)の国語教師として奉職したのち、終生、教職を離れませんでした。しかし佐藤春夫から立原道造にいたる、近代詩を代表する詩人たちとの交流を積極的にはかりました。

今回の小展示では短詩・モダニズム詩の先駆けとなった詩人、安西冬衛の蔵書(堺市立中央図書館所蔵「安西文庫」)を中心に、冬衛をはじめとする「静雄と10人の詩人たち」の代表作を展示します。

展示:平成27年3月1日(日曜)から3月29日(日曜)まで、美原図書館で

目次
書名 著者 出版社 出版年
詩集 反響 伊東静雄 創元社 昭和22年(1947年)
 「小さい手帖から」と題された南河内郡黒山村北余部(現・堺市美原区北余部)時代の作品10篇と過去の3詩集の抜粋からなる。
詩集 大陸遠望 田中克己 子文書房 昭和15年(1940年)
 伊東静雄が萩原朔太郎に認められ、浪漫派詩人として名を成したのは、田中克己との交流がきっかけです。田中克己は、昭和13年(1938年)に大阪から東京へ居を移す際に、堺の安西冬衛の家を静雄とともに訪問しています。
月に吠える 萩原朔太郎 感情詩社 大正6年(1917年)〔復刻版〕
 昭和10年(1935年)、東京で第1詩集『わがひとに与ふる哀歌』の出版記念会が開かれ、室生犀星をはじめ多くの詩人が出席しました。発起人にも名を連ねた萩原朔太郎は席上、「まだこの地上に一人の抒情詩人が残っていた」と伊東静雄を激賞しました。
南窗集(なんそうしゅう) 三好達治 椎の木社 昭和7年(1932年)
 伊東静雄を激賞した萩原朔太郎に異を唱えたのが、自ら朔太郎の後継者と任じていた三好達治でした。二人が疎遠な間柄になって約10年後、三好は静雄の戦後の詩を高く評価し、それを機に桑原武夫の仲立ちで、静雄と三好は和解しました。
在りし日の歌 中原中也 創元社 昭和13年(1938年)〔復刻版〕
 第1詩集の出版記念会のあと、伊東静雄は、出席していた中原中也に食事に誘われ(中也の分まで支払わされたことを後年まで悔しがった)、東京の中原宅で宿泊しました。伊東はまた、その前年に中原が限定200部で自費出版した『山羊の歌』の数少ない予約購入者でした。
萱草に寄す(わすれぐさによす) 立原道造 風信子叢書刊行会 昭和12年(1937年)
 伊東静雄は、第1詩集の出版記念会にも出席していた立原道造を後々まで高く評価していました(「立原道造君と私」)。『萱草に寄す』は、立原が大学卒業記念に自費出版した111部限定の詩集で、献呈署名(安西冬衛宛)が記された貴重な資料です。
詩集 郷愁 小高根二郎著 白川書院 昭和28年(1953年)
 小高根二郎は友人伊東静雄の没後、「あの非常な時代に、繊細脆弱な伊東が、歌うというだけの希望と営為によって、いかに懸命に生き」たかを世に問うため、畏敬をこめて、『詩人、その生涯と運命』という浩瀚な評伝を執筆しました。
軍艦茉莉 安西冬衛 厚生閣書店 昭和4年(1929年)
 「私は安西冬衛の詩は嫌いです」。これは伊東静雄が冬衛の出版記念会で行ったスピーチの冒頭です。すでに大家だった先輩詩人の冬衛は、口の悪い静雄に何くれとなく世話をし、またその詩についても高く評価していました。
詩集 大阪 小野十三郎 創元社 昭和28年(1953年)
 伊東静雄と小野十三郎は、その詩の示す方向性は異なりますが、戦後になって交流が始まり、十三郎が住吉高校(静雄の勤務先)へ静雄の依頼で講演に出向くと、静雄は、十三郎の詩を説明するのに、黒板に詩の舞台となった大阪湾の地図を書いたというエピソードが残っています。
詩集 夜学生 杉山平一著 第一芸文社 昭和17年(1943年)
 「あんたの「よもぎ摘み」という詩は仲々よかったよ、いつもの賢ぶった詩よりは」。静雄の8歳後輩の詩人杉山平一は、ドキッとするような毒気のある言葉を放つ伊東静雄の姿を、『戦後関西詩壇回想』などで活写しています。
詩集 花の木の椅子 山本沖子著 彌生書房 昭和52年(1976年)
 戦後長らく詩作が中断した伊東静雄は、北余部に転居後、「山本沖子といふ無名の一少女」の詩に、「戦後始めて、詩らしい詩だと刺激をうけ」たと記しています。山本はその後、伊東と対面し、「おとぎばなしの中の王子さまのよう」という感想を残しています。